浜崎洋介著『小林秀雄の「人生」論』を読んだ
- 三好真弘
- 2024年10月16日
- 読了時間: 8分
1.浜崎洋介を読もうと思ったきっかけ
たいへん面白く、一日で読み終わってしまった。
「あとがき」にあるとおり、口述筆記ということもあってか、とても読みやすかった。とはいえ、著者の浜崎洋介さんの話の上手さ、というところが、まずあってのことだろう。
私が、著者のことを知ったのは、youtubeの動画においてである。予備校の世界史教師である茂木誠のチャンネルをのぞいたところ、著者が出ていた。二人で講演をしていた動画だったのであるが、著者は戦前の日本の哲学のグループであった「京都学派」を熱心に語っていた。
最初は、どうせ素人が話しているのであろう、youtubeでよくある哲学をわかりやすく語る、というものほど面白くはない、と思っていたら、西田幾多郎、九鬼修造(厳密にいうと京都学派とは呼べないかもしれない)、三木清を語って止まらない。それに加えて、田辺元の「種の論理」について語っているのを聴いて、夢かと思った。西洋哲学の専門家はいざ知らず、日本哲学の専門家でも、田辺のことを語っている人をほとんど見たことがないからである。
けれども、私が驚いたのは、彼の知識量ではない。その知識をかみ砕く咀嚼力である。京都学派の哲学を語るにして、例えばその始祖である西田幾多郎についてである場合、それを「純粋経験」や「絶対無」、「場所」などの専門用語をいっさい使わずに、彼は彼が日常で使い、目の前の聴衆が使っている言葉を使う。身振りをつけて、言葉に抑揚をつけて、時に熱く、時に冷静に。それですっかり、私は惚れてしまって、本書を注文することになったのである。
2.浜崎洋介の咀嚼力の強さ
そうして、家にとどいて、スタバでコーヒーを飲みながらして、一日でざーっと、本書を読み終えてしまった。小林秀雄という難解(と呼ばれる)な文学者についての解説本だというのに、なぜこんなに早く読めたのかは、すでにお分かりいただけるであろう。咀嚼力がすごいからだ。
本書の序盤で、小林秀雄の文章がどうして人々を魅了したのか、その理由について、著者は明確に示している。一行で、はっきりと、的確に示している。この的確な提示の仕方が、見事であると思う。
「〔…〕小林秀雄が読者を惹きつけた理由は、おそらく、その言葉の中に〔…〕、今、ここで生きられている『内的な自己』を、どうにかして『外的な自己』に繋ぎ合わせようとする意志が感じ取られた点にこそあったのではないかと思います。」(p.45)
この一行を読んで、すごいと私は思い、ノートを取り出して、メモをした。この一行で、著者は、小林秀雄の核心をがっしりとつかんでいる。このあと書かれる小林についてのあらゆることは、この一行に集約されている。
3.「内的な自己」と「外的な自己」とは?
では、「内的な自己」を「外的な自己」に繋ぎ合わせるとはどういうことなのか。ちなみに、これを考えることは、自分の生き方について、考えることになるだろうと思う。
「内的な自己」とは「この私」である。一回きりの人生を担っている自分のことである。主語の位置にあるものだ。「私は~である」と自己紹介する際の、主語の「私」の方である。
そして、「外的な自己」とは、述語の方である。これは、いわゆる社会的な役割の方であるといえる。仕事場での役職や、家庭での立場、友人間のキャラなどがあてはまる。私は○○という会社の○○という役職である。会社員であったり、教師であったり、福祉職員であったりするが、その職場の中でも、上司になったり、部下になったり、同僚になったりと、その時々の関係によって、複雑に、キャラを変えていかないといけない。
「外的な自己」は、社会を生きる上で必要であるが、複雑で、微妙である。
4.「内的な自己」と「外的な自己」の折り合いのつかなさ
ある程度の間、私は社会で生きてきたが、疲れてしまうことや、悩んでしまうことは、この「内的な自己」と「外的な自己」との折り合いのつかなさ、であると感じるのだが、皆さんはどうだろう。
私は、具体的に言うと、「仕事から帰ったのに、家でも仕事のことをひきずっている」というしんどさを感じることがある。仕事での「役割」という仮面をかぶった「外的な自己」が、家に帰って「内的な自己」に戻ろうとしても戻れない。いわゆる「切り替え」ができないということで、しんどさを感じるのだ。
そうして「内的な自己」に無理やり戻ろうとするのに、家でスマホやパソコンでyoutubeを観続けてしまう。これは「逃避」だと思う。他にも、酒やセックスに「依存」して、溺れてしまったこともあったっけ。
で、結局、俺って、何をしたいんだっけ?
と、ふと我に返ったときに、思うわけである。夜道を散歩していたりするときに。この「我に返った我」が「内的な自己」なのでありましょう。
5.小林秀雄、失踪する
上記のような、問いを、小林秀雄も、人生の若いときに、問うたことがあるらしい。彼は、20代前半のころ、友人の中原中也の恋人であった長谷川泰子を奪い、同棲することになるが、その生活は試練に満ちたものだった。それで、突然、「失踪」する。着流しのまま出ていって、東京から、関西地方へ放浪。その失踪は徹底していて、10ヵ月以上におよんだ。小林秀雄、26歳のことである(p.63)。
私も「失踪」の経験があるので(あるんかい)、ここは同情して涙を禁じえなかったのだが、小林は失踪中にふらふらと夜道を歩くとき、ふと我に返って、「結局、俺って、何をしたいんだっけ?」と問うたはずである。
6.本当の「内的な自己」は、外に向かって開かれている。
こうして、小林は「内的な自己」とは何かを問わざるを得なくなるのだが、小林のすごいところは、ここで「自意識過剰」にならないところであり、むしろ自意識を突破するところである。
「自分の本当の姿が見附けたかったら、自分というものを一切見失うまで、自己解析をつづける事。中途で止めるなら、初めからしない方が有益である。途中で見附ける自分の姿はみんな影にすぎない。」(『小林秀雄全作品第四集』p.97)
そうして、彼が見つけるのは、自分ではなく、むしろ「他者」である。自分と他者は切り離すことができない。「内的な自己」とは、他者と関わっている「外的な自己」から離れて、自分の殻に閉じこもっている自己なのではない。そうではなくて、「内的な自己」は、「他者」と「本当に」関係している自己なのである。
「それでいて何故に二人〔女と男〕の邂逅する場所にはいつものっぴきならない確定した運動があるのか。俺には言わば人と人との感受性の出会う場所が最も奇妙な場所に見える。たとえ俺にとって、この世に尊敬すべき男や女は一人もいないとしても、彼らの交渉するこの場所だけは、近づき難い威厳を備えているもののように見える。」(『初期文芸論集』p.250)
「内的な自己」とは、引きこもった自分なのではなくて、他者に開かれている。それは「人と人との感受性の出会う場所」なのだ。このように書く小林の言葉は、ぴかっと光っているように感じる。彼にとっても、この一文を書くということは、一種の悟りのような体験であったと思う。いよいよ、人生が始まるな、という決意に満ちているように思う。自分が開かれて、他者に向かうとき、それは「今」にとっての他者であるところの「未来」に向かって、開かれていることでもあるからであろう。実際、小林は、上記の文章を書いてからのちに、『様々な意匠』でデビューし、「批評家」としての道を歩むことになる。
7.全体的直観の手触りを信じること
なぜ小林が批評家になったかというのは、批評が、「作品」という「他者」に出会うことによって、「自分」の言葉を紡ぐ仕事だというので、当然の成り行きだったと言えるだろう。ところで、この「批評」の構造について、浜崎が論理的に説明を加えている。ここの部分がわかりやすい。キーワードは「直観」である。
人が作品に出合う場合、作品をすべて読んでから理解するわけではない。まず「全体」に対する「直観」が働いている。それから「部分」について「分析」していくことになる。これは、人が人と出会う場合も同じで、男が女を知るとき、まず「惚れる」のである。これが「全体への直観」である。それからその人のことを知ろうと思う(「部分を分析していく」)のだ。ここで大事なのは、いくら「部分」を細かく分析しても、「全体」には辿りつかないということだ。
「が、その『部分』の分析をいくら積み重ねたところで、最初にあった『全体』的直観には辿り着かない。でも、だからこそ私たちは、その『全体』的直観の手触りを信じることで、再び『部分』的分析へと降りていくことになるのです。こうして『全体』と『部分』、『直観』と『分析』が循環しながら、一つの『道』を、つまりは、対象との絆を描いていくことになります。」(p.74)
8.スマホを閉じて、人へと開こう
「『全体』的直観の手触りを信じること」。これは、生きる上での指針となるだろう、と私は思う。
で、結局、俺って、何をしたいんだっけ?
と問うとき、「『全体』的直観の手触りを信じること」、ということを思い出してみる。そうすると、「youtubeを観たい」とか「酒を飲みたい」とか、「スマホでSNSを見続けたい」という答えは出てこないはずである。そういった自分の中に閉じている、自己執着的なものに手を伸ばそうと思うはずがない。そうではなくて、「他者」に伸びていく、開けたところに、行こうという気になる。
「この人の批評文を書いてみたい」。そう思って、私がこれを書いているのも、直観を信じてやり出した行動の一つである。本書を読んでいると、元気が出て来る。そして何かをやりたくなる。それは、言語化できる以前の、著者の「直観を信じること」というメッセージを読者である私が受け取って、無意識のうちに感化されているからであろう。熱くて、生き生きしていて、元気が出る。もっと著者の本を読んでみたいと思った。
Comments